多治見・陶祖碑−通釈

正二位勲一等子爵  榎本武揚
      篆書にて題字を記す

美濃の陶祖 加藤与三兵衛尉景光の碑


 尾張の陶業は加藤四郎左衛門景正を開祖とし、美濃の陶業は加藤与三兵衛尉景光を元祖とする。

美濃の陶業は、尾張より後に興ったものの、三百年で大変な盛況となった。
そこで尾張の石郡の人は陶業が年々盛況となってきたことで、碑を建てて陶祖の徳を顕彰しようと思って私にその碑文を依頼した。

そこで私は「初めに年々の盛況の様子を具に見聞してから記したい。」と答えると、その人は「陶業するところは、土岐・恵那・可児三郡の内、多治見、笠原。市之倉、土岐口、高山、定林寺、下石、妻木、肥田、駄知、久尻、高田、猿爪、吉良、見原、水上、明智、釜屋、根本の十九町村に及び、最も盛況な時は、窯の数約三百、大きなものは三、四十間、小さなものは八、九間と言われていますし、陶業に関わる人たちはそれぞれ分業して、原料の精製、素地作りを生業とする家は八百軒、釉薬を生業とするのは百三十軒、陶磁器の販売を生業とするのは三百軒あり、また窯に関わって働く人はほぼこれと同数います。
去年の生産額は二百万円を超えました。尾張、肥前は陶業のメッカですが、生産額に関して言えば、瀬戸の三倍、伊万里の二倍を生産しています。」と答えた。私は「陶祖が、この地に陶業を開いて以来、民を富ませ、久しく盛んになってきたのが、ついにここまでになったのですか」と言った。

 考えるに、加藤氏は諸々の藤姓の一つであろう。官位もあって朝廷に出仕し、尾張の陶祖と姓は同一であるけれど、その出生を異にしている。
景光は生来器用で、考えるところがあって瀬戸の地で陶芸の奥義を極めた。天正二年に織田信長が景光の陶場を訪れ、製陶するところを見て、その絶妙さに感心して朱印状を授けた。
しかし、周りの陶工がこのことを妬んだので、快く思わず、土岐の久尻にある母方の在所に移った。
またこの土地の土が瀬戸同様に製陶に適することを発見して窯を設けた。

美濃の陶業はこうして始まったのである。

景光の長男の景延は陶業を継いで、創意工夫を凝らして黒色茶碗を作り、朝廷に献上した。その褒賞に筑後の守として永代宣旨を賜った。弟の景頼はまた兄以上に出藍の誉れがあった。
このようにして景延家には永代の宣旨を伝え、景頼家には信長の朱印状を伝えている。
景延は松原氏の子景増を嫡子として養子とした。 ”景増以景延 ” 二女の婿を可愛がって、この婿に自分の資産を譲り渡して、多治見に移り住んだ。かくて多治見に陶業が始まったのである。

三家の子孫はその陶業を受け継いだものの、様々に盛衰があった。
また、伝えるところによれば、景延と景頼は妻木城主を補佐して、しばしば戦功をたてた。
妻木を初め十九町村を一つとして土岐元衛が美濃の守となった。その子孫は代々妻木に城を構えて、妻木氏を名のった。妻木広忠は、明智光秀の勇将となって、近江の阪本の地で戦死したが、その子頼忠は田丸中務と戦ってこれを斬り、たくさんの者を捕虜とした。

徳川家康は、妻木城を西軍から守るよう命じて、大阪の役の時、頼忠は再度戦功をたて、その褒賞として、代々、土岐郡の十二町邨を与えられた。従って加藤氏は一時、陶業よりも武術で名が知られた。
景光が信長に景延を認めさせ、永代の宣旨を下賜させたのも偏に身分・家柄があるからであった。

”鳴子” 景光・景延が陶業を始めたのは、江戸幕府の初めであり、この辺りの三郡でその恩恵を受ける者は、景光・景延を陶祖として、四季に祭祀をして、その三百年はまるで一日のようである。

 丁度今、外交を活発にして開国したのは、国家を富まし、福祉を増進することで、民間の殖産は偏に物産品と貿易との二つに嘱望されている。

陶祖のなしたことは、国家にとって、今日増々偉大なことである。それを称えるのに碑が無くてどうして出来るのであろう。

顕彰を辞書付賦にして言えば、

陶業は民衆の間から興り 日常で急用するものである まして現在の欧米ではなおさらである  貿易は国を支える 原料の精製はまだすぐれたものでなく このことを化学から学びとり  色彩はまだ美しくなく そのところを美術から学びとろう 精製の仕方を学んで "巳精 唯力之極 求美巳美 恐力不及 恢而宏之 唯視其力 愈使五州 推我得色  衣之食之 溥陶祖澤 ??於與"  陶祖の高徳に報いることを願うのである

明治三十五年一月

            仙台  岡 千仭  文右作る
           東京  西川元譲  書

大正八年巳未十一月  宇心庵 藤井弘恭  書

 


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