明治時代に入ると、美濃地方の窯業は陶器から磁器の生産に転換し、登り窯に改良が加えられました。磁器染め付けの顔料もそれまでの山呉須から輸入コバルトに代わり、生産性を高めるために型紙による摺絵や銅板による転写技法など能率的な加飾技法が採用されました。さらに窯業機械の輸入や発明もなされ、窯業地として飛躍的な発展を遂げます。
このように美濃焼は磁器の生産が多くなり、日本有数の焼き物の大生産地となりましたが、他の生産地と比べ粗悪品といわれました。 多治見の豪商だった三代目西浦円冶(1805-1884)はこれを残念に思い、美濃焼の品質を向上しようと市之倉の自家の窯で精巧な外国向け輸出品を作らせたのが西浦焼の始まりです。
豊富な柄と華麗な吹き絵技術が特徴で、パリ万国博覧会で名誉賞を受けた加藤五輔(1837-1915年)をはじめ、多くの名工を輩出した。
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五代目西浦円冶(1856-1914年)の時に最盛期を迎えながらも、家財をつぎ込み、明治44(1911)年に工場閉鎖に追い込まれ、「幻の西浦焼」とも言われる。
ここに紹介しました作品は、多治見市が昭和63年から購入、市文化財保護センターが所蔵している310数点の内の一部です。 この作品から「美濃焼のルネサンス」を興した西浦焼の在りし時代がしのばれます。
大きくは三期にわかれる西浦焼。それぞれの時期の特徴や品質向上に努め世界に通じる製品づくりに情熱を傾けた西浦円冶の精神は、今の美濃焼に受け継がれています。
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